■自我から学ぶ「人間にとって最も辛いこと」とは?


こんにちは、出嶌達也です。


自分自身って、この体のどこにいるのでしょうか?


私は自分自身、つまり「自我」というものが、一体なんであるのかとても興味をもっています。


素材となる物質が自分で組織をつくり、神経回路を構築するまで進化し、そこに自我が芽生えるまでに至る経過を、近い将来コンピューター上でシミュレートできる日がくると思っています。


さて、身近なところでは、難しく考えなくても、自分の中にも自我がありますから、
よくよく自分の思考を探ってみると、誰でもなんとなく見えてくるものがあります。
およそ私の自我に対する解釈は以下のとおりです。


情報伝達回路網を有するシステムに、記憶・学習する機能が生まれさらに学習内容を相対的に比較・評価し、その結果を用いて未来の予測もできるようになる頃、この予測によってもたらされであろう結果が、自分のシステムに有益か否かを判断するメカニズムそのものが自我、、、、、、です。(ココ理解できなくても可、わたしもまだ怪しい(笑))


そして自我が芽生えたメカニズムはその後さらに様々な経験を積んでいきます。
私の場合は、自分の内部に自我が芽生えた瞬間の記憶が明確に残っています。
皆さんの中にも自我が芽生えたことを覚えている方がいらっしゃるかもしれません。


私が自我が芽生えたと感じたのは、自分が何かにたよらなくては!という、重大な不安を感じた瞬間でした。


私はその不安に耐えられず、そばにいた両親に助けを求めました。そして両親が十分に自分をあやしてくれたことで安心することができました。


もし、このタイミングで私を安心させてくれなかったら、私は壊れてしまったのではないか?と思うくらい大きな恐怖感だったことを憶えています。


その後も子供ですから、不安は不定期に出てきて、たびたびに親に甘えていたと思います。親は相当大変だったと思いますが、根気よく僕を安心させてくれました。


親は生まれて最初に出会った人です。つまり僕が最初に出会った人は幸運にも、とても優しくて自分のことをわかってくれるイイ人(笑)でした。


この私に芽生えた自我は、最初に世話してくれた親の行動を礎に、そのあとも、兄弟、先生、恋人、友人、社会、、そして周辺の環境全てをお手本として成長し、良くも悪くも(笑)今の自分となって存在しています。


とりわけ、自我が芽生えた最初の頃に世話をしてくれた人(私の場合は親)の行動はとても大切だったと思えます。たまたま私の場合は最初に出会った親が根気よく安心させてくれたおかげで、人というものを基本的に信頼してもかまわないと学習ができたように思います。


動物が生まれてすぐに乳を飲むという行為はよく知られていますが、私のように、自我が芽生えた瞬間に、「自分をケアしてくれる人を探す習性」も自然から授かった「生の本能」の一つの特徴ではないでしょうか?


自我が芽生えた瞬間に、「自分をケアしてくれる人を探す習性」が真っ先に働くということは、自我にとって最も大切なのは、「自分をケアしてくれる何か」なのだと思います。


すなわち、この逆を考えますと、人間にとって一番辛いことがわかります。それは「ケアしてくれる人がいないこと」です。これは自分の状況を「わかってもらえないこと」と同じだと考えます。


たった一人でも、自分のことをわかってくれる人がいたなら、その人は救われると思います。しかし一人の人間に対してわかろうとすると、半端なパワーではできません。そして人間一人のパワーはちっぽけで有限です。


だからこそ、誰もが例外なく、近くの弱っている人に手を差し伸べ、辛い気持をわかってあげるという行動が必要ではないでしょうか。しかし本当に「わかる」ということは並大抵のことではできません。中途半端になれば相手は余計に傷つくかもしれません。それでも私は無関心よりははるかにましだと思っています。

なぜならば、自我は「ケアしてくれる人がいないこと」が最大の恐怖だからです。ならば「あなたの存在を認める人がここにいるよ!」「生きていていいんだよ!」という表現をすることでその恐怖から解放し辛さを軽減することができるのではないでしょうか?


私の中の自我の芽生えの記憶は、「すべての人の存在を認めよ」と教えてくれているようです。どんなに嫌いな人がいたとしても、その行為や発言を否定したとしても、「存在を否定することはしてはいけないこと」だと私は考えています。


いつも私の日記をご覧くださいましてありがとうございました!