■生の本能を生かすために死を理解する

こんにちは出嶌達也です。久しぶりに日記を書かせていただきます。

もう随分前になりますが、私も地元の京都で成人式に出席しました。
場所は平安神宮に隣接するの京都会館という場所です。印象に残っているのは来賓の歌手ダークダックスの歌と祝辞でした。

当時私はバリバリのロッカーでしたがジャンルの違うダークダックスの「銀色のはるかな道」の歌声に魅了されました。

またお話も面白くて、この先さらに年を重ねることがますます楽しくなるかも?と思えました。まさに京都市のイベント事務局の狙い通り(感謝!)にハマったようです。

そのときダークダックスさんがおっしゃいました。

「人生には三つの式があります。今日はその一つ目の成人式です」
「二つ目は結婚式です、、、三つ目は、、、、お葬式です(会場ウケる)、、、」

この話は人としてまだまだ未熟な私にとって、とてもありがたいお話でした。あの場所でお葬式の話題が出ることは、かなりのインパクトがありました。

成人式や結婚式は楽しいことが中心ですが、お葬式には自分の「死」が伴いますから人生最大の恐怖と苦痛があるものと考えています。

誰もが、どこかのタイミングで、いつかは必ず死に直面します。
死についての理解を深める情報群も手軽に入る時代です。
しかし、どんなに探っても自分では経験していないので、やはり私には恐怖です。

私たち人間は自然のメカニズムから「生の本能」というものを授かっているように思えます。この本能はものすごいパワーをもっていて、もちろん生きるために使うものなのでしょう。

しかし死に対する一定の理解ができていないと、この「生の本能」が「死の恐怖」を必要以上に増幅してしまうように思います。その結果、必要以上の恐怖につきまとわれ、せっかくの「生きる楽しみ」を見失いかねません。ですから死について自分の考えをもつことは大切だと思います。

私の場合は、楽しく生きるため、そして「死の恐怖」に必要以上つきまとわれないようにするため、大よそ、以下のように考える癖をつけています。

まず人間の自我を生み出す、神経などを主体とするメカニズムは有限であり、そのメカニズムによってもたらされる恐怖や痛みの大きさも上限があって、その範囲より大きくなることはないだろうということです。

たとえば痛みの強度は定量化されていて、出産を上限値とする事例が多く見受けられます。また、脳波をみてみると、てんかん発作の波形からは脳神経に飽和した情報が流れていることが見受けられます。てんかん発作は経験していませんが、あたまの中が真っ白のような状態でしょうか?

また、神経細胞が次々と壊死していく中で、思考は単純化し、深く眠りについているような状態となり、恐怖はやわらぎ楽にそのまま死ねるのではないかという見方もしています。

つまり私が予測する死(自然)の直前の状況とは
「恐怖も痛みも一定以上にはならないだろうから、必要以上に痛がる必要はない」
「自我は生をゆるやかに忘却しながら失われていくので必要以上に恐れる必要はない」
と考えています。

あくまで私の考えではありますが、最後には私は上記のようになる!と言い聞かせることで、若い頃に比べれて死に対する恐怖心は比較的軽減されています。そしてそのかわりに「生の本能」を残された自分の時間に今以上に有効に使いたいと考えています。

その期間は死の瞬間の直前、つまり最後の一呼吸、最後の鼓動、最後の神経活動、までです。欲張りかもしれませんが、そこまでは生きているわけですから、「生きる楽しみとして味わいたい」と願っています。

それでも、時々思いますが、やっぱり死は怖い、、わかっちゃいるけど、未経験だからこそやはり少し怖いですね。これは「生の本能がまだまだ健在」だからこそかもしれません。

死は誰にも必ず訪れます。その瞬間には、地位や名誉や財産に関係なく、平等に降りかかります。そして私たちの死までに残された時間は砂時計のように減っています。

死ぬ瞬間は子供の時のことが昨日のように感じられたり、一生がいかに短いものだと思えることでしょう。だからこそ、自分に残された時間を大切にしたいと思います。

ps:
私の親友には「最後の一呼吸まで人のために生きましょう!」とおっしゃる方がいらしゃいます。その方は私のイベント「数式に記された愛」のスタッフもしてくださっています。私はまだまだそこまで到達できるできる器ではありませんが、目指します。人のために生き、人が喜んでくれることは、自分の存在価値と快感の両方が得られる活動だと思います。いつも私の日記をご覧いただきましてありがとうございます!